[映画]「ラ・ラ・ランド」を観て
※Twitterより転記
「ラ・ラ・ランド」鑑賞。とてもよかった。ミュージカル映画として最高に楽しんだけれど、それ以上に感じたことがあった。僕なりに一言でまとめるなら「ハリウッド映画の最高にキュートでプリティーな"鎮魂歌"」だった。
冒頭4:3の画面から始まると、劇場の幕が広がる「かのように」画角を広げ、堂々とシネマスコープと宣言する。続けて高速道路でモブによる見事なオープニング。ハリウッド映画の豊かさを歌詞で称えながら、コントラストの強いフィルムの質感も相まって、古き良きハリウッドの手触りを伝えてくれる。
その象徴はライアン・ゴズリング演じるセブだ。ピアニストの彼は古き良きジャズとハリウッド映画(made in USA!)を愛し、アメ車やレコードに囲まれて生活をする。対してエマ・ストーン演じるミアは、現代の役者の卵。プリウスに乗りスマホももちろん持っている。セブとは対照的だ。
ハリウッドの厳しさに揉まれるミアは、セブと出逢い恋に落ち、セブを介することで古き良きハリウッド映画やジャズを知り、時に叱咤しあいながらも、おのれがなぜその夢を目指したのかに気付いていく。ミアはハコを借りてオリジナル脚本で一人芝居を決行するが、しかし現実はままならない。
これ以上書くとネタバレになるので続けないけど、僕が映画を見ながら、ずっと頭の中に浮かんでいたのは「なにもかも、変わらずにはいられない」(CLANNAD)だった。わたしが愛したものはもう誰にも観られないし求められない。いつかなくなってしまう。そう、名画座が潰れてしまうように。
きっとハリウッドには劇中のようなあんな書き割りはもう置いてないし、バカみたいなセットも作っていないだろう。もはやCGの舞台で役者もキャラがシームレスに演じているのだから*1。"LA LA LAND"を一歩出れば、ハリウッドですら謝々と頭を下げて中国資本が入れてもらうのが現実なのだ。
しかし映画は、その現実に抗うのだ(「理由なき反抗」!)。しかしそれは過去に引きこもることではない。映画のラスト、その答えとしてD.チャゼル監督は眩い夢をみせてくれる。涙が出るくらい美しい夢だ。それは幻想でしかないけれど、その幻想こそが現実を強く、作り出しているのだと訴えるように。