[映画]忘れられた〈ふたり〉より愛をこめて|「君の名は。」について
だいぶ前になるのだけど、「君の名は。」を観た。
「君の名は。」観た。これは凄い作品だ。新海誠の総決算という位の詰め込み。新海作品の一貫したテーマは「すれ違い」だが、過去作品を想起させるパーツが奇跡のように糸を織りなして演出する。それが物語の水準においても奇跡のように「出逢う」のだから。しかも同時代的な応答にもなっている。
— Masayuki Sato (@yutuki2tuki) 2016年9月4日
この頃はまさかこんなに売れるとは思わなかったけど。
もはや色々議論されているだろうし(大して追ってはいないんだけど)、今更記事を書くのはどうなんだろうと思いつつ、別に自分のための言葉を書くんだからいつでも大丈夫だろうと思い書くことにした。
結論をいえば、これまですれ違っていた「ふたり」の出会いが実現した奇蹟、を描いた作品。このことは、これまでのフィルモグラフィからも、また新海誠じしんにとっても、「ふたり」の出会いが実現したのだと考えている。そのことを語るために、まず僕にとっての深海作品について話そうと思う。
やっと出会えた主人公たち
話そうと思う、なんて大げさな言い方をしたけど、これまで良いファンではなくて、一応作品をこれまで追ってきたにわかファンでしかない(ちなみに「言の葉の庭」だけは観ていない)。
そんな僕にとって心に残ったのは、やはり「秒速5センチメートル」。
「秒速」がまさにそうであるけど、作家・新海誠というのは、ひたすら「すれ違い」を描く作家なんだと僕はこれまで思ってきた。
「秒速」の主人公、貴樹と明里は冒頭から運命のふたりであることを期待させるけど、しかし第一話「桜花抄」のラストシーンの時点ですでに、高樹は未来で起きるかもしれない別れの予感をモノローグで語っている。
それから次の瞬間、たまらなく悲しくなった。
明里のそのぬくもりを、その魂を、
どのように扱えばいいのか、どこに持っていけばいいのか。
それが僕には分からなかったからだ。僕たちはこの先もずっと一緒にいることはできないと、
はっきりと分かった。僕たちの前には未だ巨大すぎる人生が、
茫漠とした時間が、どうしようもなく横たわっていた。でも、僕をとらえたその不安は、やがて緩やかに溶けていき、
あとには、明里の柔らかな唇だけが残っていた。―「秒速5センチメートル」第一話 桜花抄
第三話「秒速5センチメートル」においては、そんな高樹がその喪失感を仕事で埋めようとしたものの、燃え尽きて仕事を辞め、社内恋愛も「1000回メールしても、心は1センチくらいしか近づけなかった」と言われるくらいにしか、のめり込めなかった。明里を忘れられない、そんな姿の高樹がいる。
一方の明里は、田舎から帰京するシークエンスから推測するに、既に他の知らない誰かと結婚することになったことがわかる。
それを観て僕は当時、「やはり男は恋人を忘れられない“別名で保存”で、女は忘れて別のところに行ってしまう“上書き保存”なのだ」と、われながら身も蓋もない感想をいたく思った。*1
ラストの踏切シーンをバットエンドと取るか、逆に高樹が成長する契機として肯定的に取るか、それは人それぞれだと思うけど、ともかくも僕のなかでは痛みの所在を示してくれた作品だった。
そこから「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」と遡りつつ、劇場に足を運んで「星を追う子ども」を観に行ったりもして作品を追っていた。*2
で、「君の名は。」である。
そもそも劇場に入ったら両隣を男子中学生の集団に取り囲まれ、上映前はなんだか新海誠というかワンピースでも観に来たような不思議な気分だった。
けど観終わってみればまさに新海誠だし、内容は新海誠ぜんぶ詰め合わせだった。
これまで作品を曲がりなりにも追ってきた僕としては、この詰合せの内容なのにもかかわらず、出会いが実現されていること、そのことがとても嬉しくなった。
というのも、先に述べたようにこれまでの過去作の主人公たちは、「秒速」を代表としてずっとすれ違っていた。
しかし「君の名は。」において、これらの作品たちは、それぞれ構成要素となり断片とひとつとして物語を形作っている*3。
だから僕には、その断片たちが、「すれ違」ってきた思いの断片たちが、この出会いの奇蹟を生み出しているように見えて、とても嬉しくなったのだ。
新海誠じしんの意外な「出会い」
そんな気持ちで劇場を出て、パンフレットを買って帰った。実はパンフレットを最近になってちゃんと読んだのだけれど、ここでさらに「出会い」を見つけたのだ。
パンフレットには新海誠監督のインタビューが掲載されているのだけれど、ここにこんな言葉があった。
その前に『秒速5センチメートル』という作品を作って、ある程度の評価や支持もいただいたんですが、自分の思いとは随分違う伝わり方になってしまったという感覚があったんです。自分ではハッピーエンド/バットエンドという考え方をしたことはなかったんですが、『秒速~』は多くのお客さんにバッドエンドの物語と捉えられてしまったところがあって。
(中略)
そう思わせてしまったとしたら、そこはもう技術の問題だな、と。
もう気づいた人がいるかも知れないけれど「秒速」以降、観客、言うなれば愛されているファンに誤解されてきた。つまり「すれ違い」が起きていたのだ。
その後いかに、思いが届くように、コミュニケーションが通じるように新海監督が努力してきたかが、後段に続くインタビューから伝わってくる。
物語を作るということを一から自分なりに勉強し直しました。今更ながらですが、脚本術の本を読んだり、古典を読み直したり。その上で『星を追う子ども』という作品を作って、ある程度の手応えも感じられた。それでも公開したら、『秒速~』のときと同様に、観客には自分の意図が思うように伝わっていない感覚が残ってしまった。どうしたらもっとうまく語れるのか。そう思いながら次の『言の葉の庭』を作り、その前後にも30秒CMや小説等で、物語を作るということに向き合い続けました。
(中略)
そうした経験を経て、次こそはもっと言いたいことをストレートに語れるんじゃないか、伝えられるんじゃないかと思えてきたのが、『君の名は。』を作り始めたタイミングだったんです。自分の良いところも悪いところも分かってきて、良い部分で良い作品を作れるんじゃないか、と。―同前 新海誠監督インタビュー(一部原文より修正)
僕はさきほど、作家論として「すれ違い」の作品を作ってきた新海誠が、過去の作品を用いてついに「出会い」を描いたと語った。
けれど、じつは監督と観客のあいだにも「すれ違い」が起こっていて、さまざまな経験の経て「君の名は。」において(しかも「出会い」の物語を描くことで)、ファンと出会う=ヒットするという結末に至ったことに、僕はなんとも驚いたのだ。
もちろんヒットしたことを持って出会い=コミュニケーションの回路が生まれたと解釈するのは早計かもしれない。しかし先のインタビューからも伝わるように今回は確信をもって作品を作っている。その努力過程は下の記事からもよくわかる。
diamond.jp
この二重の出会いが起こったこと、インタビューを読んだあと、改めて喜ばしく感じてしまった。
〈ふたり〉からの願い~運命の出会いについて
最後にネタバレ部分にはなるが(と言ってももうやったっていい時期だろう)、ラストシーンについて語ろうと思う。
危機を回避した瀧くんと三葉は、かつての出会いの記憶は失ったまま、何かもやもやを残しながらそれぞれの生活を生きている。そのふたりがある日、偶然にすれ違い、そしてラストシーンにおいて、彼氏彼女たちはふたたび出会う。
糸守の山頂で出会うシーンも、違う電車に乗ったふたりが見つめ合うシーンも好きだけれど、このラストの出会いというのは、特別な意味合いを持っていると思う。
この「ふたり」は僕たち観客がスクリーンで観てきた、これまでの遍歴を記憶していない。しかし〈ふたり〉はたしかにすれ違いながらも出会い、絆を深めてきた(すくなくとも僕たちはそう記憶している)。
〈忘れられてしまった瀧くん〉と〈忘れられてしまった三葉〉の行動によって、ラストシーンの「瀧くん」と「三葉」の出会いは起きた。存在しない〈ふたり〉によって。言うなれば、奇蹟がもたらされている。
この出会いが感動的なのはつまり、かつて存在した、もしかしたら平行世界にいるかもしれない〈瀧くん〉と〈三葉〉が求めた、かけがえのない願いが叶った瞬間だから、だ。
すでにいない、記憶から消えてしまった別世界の〈わたし〉と〈あなた〉からの願い。あえて言いかえれば、運命の相手と出会うということとは、もしかしたら「わたし」の知らない〈わたし〉からの贈り物なのではないか。
*1:そこに山崎まさよしが「One more time, One more chance」と、いる筈のない彼女の姿を探してしまうと熱唱して畳み掛けられれば、同じような経験をしたものなら、そりゃあ大変なことである
*2:とはいえ「星を追う子ども」については、大作志向にジブリ志向で、無理している感も含めて、どーなんかなーとか思っていた。つまり正直に書けば、シネマサンシャイン池袋で知り合いと一緒に見に行き、帰りに寄ったデニーズでボロクソに批判してたのだ。
*3:たとえば「秒速」のMV的要素に電車要素、「ほしのこえ」の電話がつながらない要素、「星を追う子ども」の彼岸の世界描写は糸守の山頂に、等
*4:ここには東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 』の強い影響があることは言うまでもない