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yutuki2tuki's blog

なにもしていません

[読書]春日太一『市川崑と「犬神家の一族」』(新潮新書) 感想

先日の「タマフル24時間ラジオ」で著者がゲストに呼ばれた際に興味を持って本書を読んだ。これの「シン・ゴジラ」評が面白い。


タマフル24時間ラジオ2016!!! 春日太一の早朝映画談義

かんたんに言えば「『シン・ゴジラ』は、市川崑岡本喜八の現代版アップデートだ」という解釈。庵野さんといえばこの二人の名前はよく出るのだが、具体的な演出手法の影響までは知らなかったので大変勉強になった。

私は市川崑は実質「細雪」しか観ていない*1情弱なので、一応本書を読む前に「犬神家の一族」はAmazonPrimeで鑑賞したのだが、とても面白かったし、本書を読んだ後にはまた観返したくもなった。

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市川崑と『犬神家の一族』 (新潮新書)

市川崑と『犬神家の一族』 (新潮新書)

本書は、市川崑についてコンパクトに纏められたブックレットという体裁。
短い序章のあと、市川崑の経歴を追いながら、彼の特徴を浮かび上がらせている第1章、それを踏まえ「犬神家の一族」の作品解説をしている第2章、最後に石坂浩二にロングインタビューを敢行した第3章、というシンプルな構成になっている。

じつはタマフルの文脈からすると序章*2が大事なのだ。つまり、市川崑の演出手法が現代日本の映画界にとって必要なのでは、と問うている。

筆者は、自身の好みは深作欣二五社英雄の情念をほとばしらせた作品であって、クールでスタイリッシュな作品をつくる市川崑は「乗り切れない監督」という評価であったという。

しかしある番組で市川崑の解説を依頼されたことを機に作品を観返していくなかで、あることに気付く。

今、日本の娯楽映画の多くは面白くない。その要因は、心情の全てを語りつくす饒舌な脚本、凡庸なキャスティング、テンポの悪い演出と編集……といった点が挙げられる。
今回の検証をしているうちに「市川崑の演出にこそ、その打開策がある」そう思えてきたのだ。俄然、燃えてきたのと同時に、その作品が好きになっていった。
春日太一市川崑と「犬神家の一族」』p.6(一部引用者改行)

この「打開策」について、詳しくは是非本書を手にとって読んでいただきたいが、私なりに気になった点をいくつか。

市川崑の映画を観るとスタイリッシュな映像演出に目がいってしまうが、本書を読むにつけ、妻であり脚本家の和田夏十*3の存在が大きいのだと感じた。昭和58年に亡くなるまでほとんどの市川作品の脚本を手がけた彼女。なんと夏十の実質的な遺作となった「細雪」以降、市川は迷走を続けると筆者は述べる。

夏十の特徴について、小説を"脚色"することの魅力について述べたこととして、彼女の言葉を引用している。

脚色は原作をバラバラに分解してそれを又組立直すので、読書などよりは数段原作に肉迫出来ます。波乱万丈などとは程遠い私の日常生活は限られた枠の中でしかあり得ません。狭く深く掘り下げることは出来ても浩く経験することは不可能です。他人の経験を食って太ろうとは太い考えかも知れませんが、自分を虚しくして他人の人生感に同化してみる事は、思いもかけない程の収穫をもたらすものなのです。
前同 p.51(筆者引用元は市川崑和田夏十『成城町271番地 ある映画作家のたわごと』)

和田夏十が原作を徹底的に解体して現代的にアレンジし、それを市川崑がスタイリッシュな映像で取っていく、という共同作業」(p.52)で、文芸作品の観念的な内容を具体的で即物的なものへと見事に「コード変換」し、「炎上」や「鍵」「破戒」などの傑作が次々と生まれていく。

たとえば「野火」の場合、「人肉食の葛藤と罪の意識」「神との対話」といった原作の観念的な内容を、飢餓状態の戦場での地獄を引いた目線で描くことで解決しているそうだ。夏十は「脚色できない小説はない」と言い切る。

私はおおよそなんでも映画になるんじゃないかと思っています。映画とはそれ程融通無礙の表現形式であると信じます。深刻な心理劇はもとより哲学でも映画に出来るかもしれません。映画に出来にくかったり映画に出来ないと云われたりするのは、まだそれが成功する方法がみつけられていないからだけのことでしょう
前同 p.55 (筆者引用元も前同)

ここまで言い切れるとはなんと格好良く、とはいえ恐ろしいか。宣伝文句で「映像化不可能と言われた作品」というのがよく使われるが、そういったものに限って大したことはなかったりするものではあるが(映像が凄いのはあるものの)、その理由に和田夏十は「それは成功する脚色の方法でないからだ」と言っているのだから。

その意味で「犬神家の一族」とは、ミステリー映画という不可能をやってのけた作品だと、筆者は解説する。ヒッチコックが「ミステリーの映画化には否定的」と評価していると前置きしたうえで*4、第2章では「ミステリーの退屈性に挑む」ため、編集による時間操作、キャスティングの妙、情況説明とコメディ要素の掛けあわせ等、いかにエモーションを保ちながら観客に興味を惹き続ける演出をしているかを説いている。

特に面白かったのは、石坂浩二のナレーターとしての声色の重要性の点で、これはなるほどと唸らされた。再び観る際に注目したいポイントだ。

第3章では石坂浩二のインタビューから、市川崑がいかにこだわったか、その結果当時の撮影がいかに贅沢に時間をかけて行われてきたかが垣間見える。そして「これは今の時代では無理なのでは……」と痛感してしまうわけだが、ここで思い出してしまうのが「シン・ゴジラ」のことであった。

そもそもこの体制は、70年代の映画界の衰退とともに一度危機的情況に陥る。市川が「木枯し紋次郎」の撮影中に拠点である大映京都撮影所が潰れてしまう。彼はスタッフをひとりひとり口説いて新たなプロダクション「映像京都」と言う会社を作り、時代劇作品のクオリティを維持したとのことだが、この歩みは「シン・ゴジラ」を介すと庵野秀明がカラーを立ち上げた経緯を想起させる。

またこと特撮について言えば、特撮が撮影所というシステムがあってこそ出来るものだ、ということを樋口さんが語ったことを思い出した。
(下の動画、24分50秒以降)

平成極楽オタク談義 第三夜 「ゴジラ1984」 (2002年)

84年ゴジラは、樋口さんの言葉を借りれば「撮影所というシステムが崩壊した最後」の作品だそうだ。市川崑は83年の「細雪」以降低迷したということだが、なにか符号的なものを感じてしまった。それだけに「シン・ゴジラ」が果たした意味というのは大きいように感じるし、タマフルで著者が興奮する意味もわかる気がする。

補足だが本書の面白さのひとつに、著者の正直な感想がある。先ほども述べたが、「細雪」以降を"迷走"と評し、「犬神家の一族」のリメイクは「残念な遺作」、とりわけ凄いのが「監督クラッシャー・吉永小百合」という見出し。すごい。とはいえ、感覚に好き勝手言っているのではなく、筋を立てて解説しているので、なるほどと思ってしまう。そこは上手い。

(執筆時間 3時間弱)

*1:正確に言えば「夢十夜」も劇場で観たが内容を全く覚えてない

*2:というか実質的なあとがきでもある

*3:読みは"わだ・なっと"。当初は市川との共同ペンネームだったとのこと。本名、市川由美子

*4:ちなみにヒッチコックはサスペンス・ミステリー・ハプニングを娯楽映画の三大要素としている、とのこと