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yutuki2tuki's blog

なにもしていません

「子どもが欲しい」について考える

雑記

件のツイート

二村ヒトシ氏からリツイートで回ってきたセックスやらないマン氏のツイートなのだが(ちなみに私はこれで初めて氏を知りフォローしました)、この意味とはどういうことなのだろうと気になったので考えてみたいと思う。*1

まず大前提として、今日の日本における「子ども産め」社会圧力がいまだ現存するなかでの対抗言説として、正当なものだと思っている。また内容に不足があるかもしれないが、140文字にすべてを言い切ることはとうぜん不可能であろう。

それを前提としたうえで、このツイートを出発点として私としていろいろ考えたいと思う。

論の展開

まずツイートを私なりに明確化する。要旨は3点に分かれる。


第1段落では、

「子どもを欲しがるのは生物の本能」とか言う人がいるけど、それはない。

と述べている。

すこし言いかえれば、「子どもを欲しがる」という(感覚/欲望)は「生物の本能」ではない、ということだ(「感覚/欲望」は以降用いられる用語で補足した)。

そもそも、人間に「生物の本能」を想定するのか、という問いがあり得るが、次の段落で「本能としてプログラムして」という記述があるので、人間には本能がある、という想定をしていると推測できる。



次の第2段落はこうだ。

セックスすれば子どもはできるのに、わざわざ「子どもが欲しい」という欲求を本能としてプログラムしておく必要性はないからね。

文意を明確にしにくい文章であると感じる。

というのも素朴に見れば、「セックスすれば子どもはできるの」だから「『子どもが欲しい』という欲求」は(プログラムされた)本能ではない、と読める。

だが、この言明は「セックスしたい」という本能はある、ということを前提としていないだろうか。それが悪いと言っているのではない。勝手な印象ではあるが、セックスやらないマン氏のような意見を持つ方が「セックスしたい」という本能の存在を認めるだろうか、というのが私の疑問である。

読み間違いの可能性はあり得るものの、もし「セックスしたい」本能がないと解釈するならば、「セックスすれば子どもはできる」という言葉は、いったい何を指しているのだろうか。端的に言えば、なぜセックスするのか、ということだ。

ここで気にすべきなのは、「欲求を本能としてプログラムしておく」という点だ。おそらく「プログラム」とは、ヒトが種の保存のために次世代をつくることがアプリオリに埋め込まれている、という意味だと推測できる。ドーキンス的に言いかえれば、わたしたち生物は遺伝子によって次世代の生産をはじめから動機づけられている、ということだ。

次世代の生産の手段として"何かしらの"本能が埋め込まれているとして、それがセックスしたい(快楽)欲求かもしれないし、(あえて言えば)「子どもが欲しい」という欲望かもしれない。

ひるがえって難しいのは「セックスすれば子どもはできる」という文面が、欲求や意志と切り離されたニュートラルな筆致である*2という点だ。価値中立的な書き方に見える。

私の推測ではあるが、氏はおそらく「セックスしたい」という本能は認めないのではないか。だから「セックスすれば子どもはできる」というニュートラルな言葉にしているのではないだろうか。

このニュートラルさというのは、セックスが何か"端的な行為"であって、「子どもが欲しい」などの欲求とは別物である、と切り分けているということのように思われる。というのも、このツイートのいくつか前に以下のようなことを書いている。


これは必ずしも氏の意見を表明しているとは言い切れない文面であり、私は「性の解放」運動に関してはほとんど知識はないが、第2段落の文意に通じるものがあるように思う。



そして最終段落で

「子どもが欲しい」という感覚は、特定の文化・環境の下で形成される特殊な欲望なんだよ。

と締める。「子どもが欲しい」という「感覚」は、文化によって構成された「欲望」なのだと定義づける。ここの「感覚」「欲望」というワードは、「本能」「欲求」に対になるものとして選ばれているのであろう。

つまり「本能」とは生物的・アプリオリなものに対して、「欲望」とは文化的・アポステリオリなものである、ということだろう。加えて「特定の」という言葉を加えているので、フーコーのいう「エピステーメー」に近いニュアンスを持っているように思う。

以上の解釈をまとめるならば、「子どもが欲しい」という感覚は、ヒトにプログラムされている本能ではないことはおろか、文化的に構成された相対的な「欲望」に過ぎない、ということを意図したツイートだと私は思う。


いくつかの疑問点

これまで論旨を追ってきたが、私の疑問は以下の点だ。

  • ① 「セックスしたい」という「欲望」は、本能ではないのか
  • ② 本能でないとした場合、子どもができるとはどういう動機によるものなのか(もしくは動機のない端的な行為なのか)
  • ③「子どもが欲しい」という「欲望」は、ほんとうに「文化によって構成された「欲望」」なのか


上記については、気が向いたら考えたい。

*1:ちなみに私は『すべてはモテるためである』『恋とセックスで幸せになる秘密』を読み、ツイッターを追っかけている程度の二村ヒトシファンである。

*2:とりわけ「子どもは」の「は」という助詞