yutuki2tuki's blog

なにもしていません

「コクリコ坂から」と「シン・ゴジラ」

コクリコ坂から [Blu-ray]

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録画していた「コクリコ坂から」観た。劇場で観たきり2度目になるが、やはりたいへんに良い作品だった。以前に観た際には、登場人物の礼儀作法を通じた感情の抑制、そしてその逆方向としての感情の発露があり、それが映画の緊張感を生むと指摘した。その詳細は省くが今回観て感じたのは、その作法の下地となるそれぞれの「領分」についてだった。

映画「コクリコ坂から」では、松崎海(メル)と風間俊との、出生の秘密を絡めながらの恋物語を中心に、同時に古き良き部活棟「カルチェラタン」の取り壊し中止を巡る学生たちの活動が描かれる。「カルチェラタン」は女子の寄り付かない男子たちの巣窟であり、そのため取り壊し中止の運動も全校生徒の賛同を得られないままでいるが、物語が進むなかでメルの提案でカルチェラタンの大掃除を行うと、その価値が認められて、全校生徒の賛同を得ていく。

このカルチェラタンに象徴される、男子高校生らが活動=趣味に没頭し議論を戦わせながら馬鹿なことをやっている「オトコノコの領分」がある。また、これを冷やかしながらも遠巻きに見守っている「オンナノコの領分」がある。領分を認めるということは、自治を認めることであり、自主を肯定することであり、干渉をしないことである。それら「子供の領分」に対し「大人の領分」がある。

「オトコノコの領分」でしかなかったカルチェラタンの取り壊しが回避されるのは、メルの介入によって「子供の領分」となり、「大人の領分」である理事長と渡り合うからではないか。それら領分を越境するために、礼儀作法は呼び出されるのだ。

僕が思ったのは、現代ではこの「領分」が急速に消失しているのではないか、ということなのだ。あなたから見えるあなたの世界を認める前に、私から見たらあなたの世界は認められない、と礼儀作法がないままに干渉してくる。そのようなことがまかり通っているように思える。

例を出す。シンゴジラのPのインタビューで「「大人向けにしよう」と、女性とか子どもとか意識しない」脚本にした、と答えたことが批判されている。
bylines.news.yahoo.co.jp

その指摘はいわゆるポリティカルコレクトネスだ。つまり、「東宝の認識では、女性は大人ではないのか!」と。更に可笑しいのは「シンゴジラは女性にも面白い作品であり、東宝は女性を馬鹿にしている。正しくは『人間向け』なのだ」と。僕は本当にこういう議論は苦手で、じっさい何も生まないと思う。

読んでみればわかるが、この言葉の発言主は庵野さんだ。ここで「領分」の話と繋がるのだが、僕が思うに、庵野さんは「オトコノコの領分」で映画を撮りたかったのではないか。そしてそれが実現し、結果「オトコノコの領分」が「オンナノコ」にとっても面白いものになったのでは、ということである。

ここで傍証するのは、たまたま特撮博物館の図録を直前に読んでいた桜井浩子さん(フジ隊員な)の記事。
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記事は庵野さんと初めて出会った時の事から始まり、それをきっかけに庵野さんのほか樋口さんなどと何度も会合を重ねていく、と語りが進む。そんななかで、桜井さんはかつて見た、円谷英二ほかクリエイター達の情熱を彼らに重ねていく。

「当時、10代の新米女優だった私に〈男の子たちって凄い!〉と思わせた熱情を、庵野さん達の中に発見した」。エヴァほか彼らの過去の作品を見るうちに「彼らこそ、円谷特撮を継承する人達!」と確信する。

「そんなある時、珍しく庵野さんが酔って自分の夢を語り出した。その庵野さんの言葉に頷く樋口さんや原口さんの少年のような表情が、印象的だった…朦朧としながら彼らの想いを子守唄の様に聞いていた。〈いいなあ…男の子達の夢…〉」

この夢が、特撮博物館という現実となって動き出すことになる。庵野さんの、この一途さ、想いを実現する魂の強さに桜井さんは感激し、「やっぱり〈男の子達って、凄い!〉」と締める。

この桜井さんの視線に、これまで僕が語った「コクリコ坂から」の「領分」についての同型性を見る。それは、オトコノコに開き直るのではなく、そこから出発することに価値がある。

個人的なことを抽象的に言えば、この「オトコノコの領分」をいかに確保するか、そして「オンナノコの領分」も「大人の領分」も認めて、礼儀をもって共生するか、ということなのかもしれない。そんなことを思った。